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ぼくの祖父のこと [非暴力]

 僕の母方の祖父は、戦争に反対の立場をとるキリスト者でした。
祖父は、1939年の治安維持法第二次一斉検挙で伝道中に逮捕され、1945年9月に釈放されるまで6年間投獄されていました。
 しかし、釈放の約2ヶ月後に、看病の甲斐もなく祖父は死亡してしまいます。
長期にわたる投獄生活と、転向を拒否したために受けていた激しい拷問により身体が衰弱しきっていたのです。
「敗戦後に獄中で死ぬと責任問題になる」と悟った当時の公安は、GHQの命令の前にすぐに釈放したようです。「獄死」と言っても過言ではないでしょう。

 僕の母方の伯母は語ります。
「釈放されて家に帰ってきたときね、お父さんは私たち子供に 『こんどは、いいお父さんになるからね』って言ってくれたの」と声を震わせます。

 「なにしろ私が学生の頃、父親はずっと刑務所にいたわけだから・・・。
今なら何にも恥じることはないってわかるけれど、当時は民主主義なんて何も知識がなかったから・・・。
お父さんが亡くなったあと、お父さんの投獄の話しは、『恥』だって思っていて家族みんなで避けていてね、最近になってからだよ、こんな話しするのは」

 伯母は、つらい事をあえて思いだしたくもないし、連れ合いにいらぬ誤解をされたくもないために長年黙ってきたのでした。

 「釈放されてすぐにね、どこからか政府に賠償金の請求ができるようだって聞いたけれど、お父さんはね、『日本も好きで戦争をしたのではないだろう』って請求する必要はないって言うの。
『戦争というもののために、こんなことになったのだから。ぜんぶ戦争がいけないんだ』って言っていた」
「なにしろ、お母さん(僕の祖母)も長女も逮捕されたし。父さんは一人で伝道中だったから家にはいなかったのだけれど・・・、伝道先で逮捕されたのよね。」

 「私たちは仙台に住んでたの。朝早くね四時頃だった。雨戸をドンドンドンって、声は出さなかったね。土足でね、そう、みんな土足だった。警察の人たちが入ってきた。
タンスの引き出しを開けて手紙を全部持っていくの。私は小学校の五年生だったよね。」
「東京で亡くなった姉さんから、私あての大切な手紙があってね。
『これは姉さんからのだから・・・!』って、持っていかないでって頼んだのだけど、刑事に突き飛ばされた。身体がポーンと宙に飛んだのおぼえてる。信仰のことなんか何も書いてなかったんだよ。持っていかれたの、姉さんからの手紙。悲しかった」

 僕の母も語ります。
「私は小さかったから、あまり覚えていないの。でもね、小学校にあがると先生は、父が刑務所にいるというので私に厳しかった。手首の内側に氷を乗せて立たされて、気絶したことがある。先生がそうだから、同級生にもいじめられた」

 「小学校低学年の足だから、片道2時間ぐらいかかったかなあ・・・一人で宮城刑務所に行ったの。高い塀だった。
この塀の向こうにお父さんがいるんだって、思うだけで父に会えたような気になれるのよ。
また2時間歩いて家に帰ると、もう夜もふけていて家族のみんなが心配しているの。どこに行ってたのって聞かれても、私は家族に決して言わなかった。黙って自分だけの秘密にしていた。一人で、何度も何度も行ったのよ」

 僕は、祖父のことを書きとめておきたいと思い、あらためて聴く機会を持ちました。そこではじめて、母は嗚咽しながらこの事を語りました。50年ものあいだ一人で、心の奥にしまっていたのですね。

 祖父の所属していたキリスト教のその会派は、アメリカに本部を持っていました。戦後まもなく本部は、この戦争は侵略に対抗する為の正しい戦争だったと総括したといいます。しかし祖父たちは聖書にもとづき「戦争に正しい戦争はない」と反論しました。教団本部は祖父らを破門し、現在も異端者としていると聞きます。

 孤立無援で残された祖母と母達姉妹は、信仰から離れました。
当時の日本は、戦争に反対するものを非国民と呼び、法律に基づいて、公務員の手によって力ずくで個人の信条を変えさせようとしました。
人権は、世の正義よりも優先される人間の尊厳だと思います。また、戦争は、人権を根底から踏みにじる行為です。

 いまの日本にあっても、「人権」を口にする人を「正義の味方」と茶化したり、イデオロギー的なレッテルを貼って片付けてしまう風潮があります。
しかし僕は、だれが何と思おうとかまいません。
僕の心の中で、人権という言葉が大切な響きを持って存在しているのだからしかたないのです。もしかすると祖父の「血」なのかもしれません。
釈放後2ヵ月あまりで亡くなった祖父の思いは、僕のなかに生きている・・・最近そんな気がします。

 法は人を生かしも殺しもする。そんなわけで僕は、目の前の人権に、無関心ではいられないのです。

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韓国ソウルの西大門刑務所歴史館(当時の日本の宮城刑務所と同様の設計だったと言われている)

<参照>
兵役を拒否した日本人—灯台社の戦時下抵抗 (岩波新書) [新書]
http://mediamarker.net/media/0/?asin=4004150191

灯台社とその前後の時代にかかわった人たち
http://www.geocities.jp/todai_sha/relative_persons/relative_persons.html
(村田 芳助 1893年頃誕生~1945年死去。仙台でパイオニヤ(コルポーター)。秋田県横手の駅長。1939年(昭和14)6月21日,宮城県で検挙(46歳)。以後,6年獄中生活。多くの拷問を受けたため,終戦出所後1か月で衰弱死)
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